一人ひとりが「自分を生きる」時代だからこそ、「人と共に幸せに生きる方法」を知る必要があるのではないか?
その思いからはじまった、「価値観の違いを超える」をテーマに多様な分野の専門家・有識者のお話を伺い、幅広い視点から幸せな夫婦関係づくりについて学びを深める企画です
専門家の方お一人お一人の「人生の歩み」も大切にお話を伺いました。
あなたの「人生」がもっと味わい深くなるお話ばかりです。
人と共に、幸せに自分を生きたいあなたへ。ぜひお読みください!
第一回目にご協力下さったのは、真言宗の僧侶である疋田運琇 さんです。
「血縁を超えた関係」を体現したご家族のこと、心をつなぐコミュニケーションの取り方をはじめ、頭・胸・お腹の声に耳を傾ける大切さなど、ご自身の実体験からの「智慧」をお話して下さいました。
・寺よが代表者
・真言宗僧侶
現在は、寺よがやたき火を通した地域の対話の場づくりなどにも積極的に取り組んでいらっしゃいます。
インタビュアー:Mio
人をつなぐ対話と焚き火
ー今日はよろしくお願いいたします。焚き火の様子をSNSで拝見させていただきました。
先日は宮城県名取市の駅前で焚き火イベントをして100人位が来て下さいました。
「こういう場を作りたかったんだ」と思えて、「すごく満たされた」感じで今を迎えています。当初考えていたこととは全然違う感じになりましたが。
ー全然違う感じですか?
もともとは、お寺という立場でいろいろと地域の方のお話を伺っていた経緯があり、地域に長く住んでいる方と新しく来た方が壁のない状態で話せるような場をつくりたいと思っていました。
役所にその意向を伝えてその頭でいたので、始まったらチェックイン(一人一人がはじめに一言話す)時間をとって…などを最初は考えていたんです。
でも、焚き火を運営して下さるゆたかさんとお話をしたときに、「たき火は湯上りのような場」でたき火を見て座っている人たちがどんな湯加減で話しているか「湯加減を見続けるだけでいい」と伝えてもらい、実際にそうだったと体感しました。
ーそうした結果「つくりたかった場」となったのですね。私の心まで温まってきました。ありがとうございます。
「血縁を超えた」ご家族のこと
今回、このインタビューのお話を伺って仏教的なこと、ヨガ的な部分、いろいろなことがお話しできると思いました。
いまこの場でお話をしてみて、まず私の家族についてのお話から何かお伝えできるのではないかと思いました。
ーありがとうございます。ぜひお願いします。
ご家族がうまれたときのこと
うちはちょっと特殊で私は3年前に結婚をしましたが、彼女は16歳年上で子どもが2人いました。彼女の元旦那さんとの子どもです。
私と元旦那さんとの仲についても話すと、いまは一緒に仕事をしたり、彼女を差し置いて2人で会ったりするほど仲のいい関係です。
ーそうなんですね!
少しずつ近づいたお子さんとの距離
そんな家族関係で、子どもたちは私のことを「秀さん」と言ってくれます。子どもたちからすると、パパはパパ。「秀さん」は「秀さん」。
子供たちにとっては、家族という一くくりの中に新しい家族構成の「秀さん」がいるというただそれだけで、家族がただ増えたみたいな認識です。
だから、最初は大変でした。子どもが小さかったこともあって蹴られたりとか。でも、半年くらいしたらだいぶ違ってきました。そこから少しずつ仲良くなって、今は本当に仲良くなっています。
「秀さん」は子どもたちからの祝福
当初はお父さんと呼ばれるか呼ばれないかみたいな葛藤もありました。
ですが、子どもたちからしたら「秀さん」という家族が増えたことに納得があって、そこに祝福の気持ちがあったらそれでいいなと。そう思えるようになりました。
人によっては「お父さんと呼んでほしい」と思う人もいるかもしれません。でも、それは血が繋がってない側のエゴというか、「そうあってほしい」があるのかもしれないなと。
私も子どもからの視線などで痛感したので、はたから入ってくる側の痛みは分かるつもりではいます。でも、その痛みに対して、逆襲みたいな感じて「お父さんと言いなさい」ということはしませんでした。
血縁を超えた家族ができた先にあったもの
まずはその経験を通じて、私もパートナーも体現したかった「血縁を超えた家族」というのを証明できたかな、「血縁を超えた家族ってあるんだよ」と伝えたいなと思います。
世間ではこの形の家族を「ステップファミリー」といいますが、呼び方は重要ではなくてその「家族」というものを見た時に、今満たされているものが全部あるということが大事なのだと思います。
子どもはこれから先、進学の関係で「パパ」と住む予定にもなっています。私自身が子どもがパパと住むことが嫌だということもなく、本当にシームレスな関係性を感じています。
それを作ったのはパートナーの存在も大きいです。
同時に、私も年齢以上の経験をして鍛えさせてもらいました。たとえば、PTAに入って教育に対する働きかけをするという志をもったことも子どもたちと出会わなければありえなかったことです。
かけがえのない体験ができたので、鍛えられたことには本当に祝福であり、感謝をしています。
「血縁を超えた家族」体現までの歩み
ー「血縁を超えた家族」を体現されたお姿に胸を打たれました。
ただ、「鍛えられた」とおっしゃっていたように、実際に「満たされている」と言い切れるようになるまでには、いろいろな出来事や学びがあったのではないかと思います。
本当にいろいろな悩みがありました。
まず1つ言えるのは、子どもとの接し方ですよね。
子どもとの接し方が全然分からない上に、子どもにとっては「この人は誰だ?」と警戒しながらのはじまりだったというのもありました。
パートナーにもカバーしてもらいながら一緒に遊ぶようになって、それから仲良くなっていきました。
一方で、子どもはママとパパの家を行き来していた中で、パートナーと一緒に住むようになるタイミングでも、関係者間のコミュニケーションがうまくいかなかったということもありました。
このとき、穏やかなところに居続けようと思ったら居続けることもできるはずですが、自分から進んでエッジ(自分の当たり前の範囲と、相手の世界や未知の世界との境界)に行った感じがありました。
自分の境界を広げた先に待っていた出会い
傷つかなくてもいいのに、覚悟で行ったんですね。彼女と一緒になるといいうのはそういうことだなと。
そのとき、めちゃくちゃ悩みました。
そのときに解決の糸口になったのが、さとちん(渋谷聡子さん)と出会い、さとちんのNVCの向き合い方に触れたことです。
コミュニケーションというものに、この向き合い方を1つ挟むだけで人はストレスなく自分のニーズ(心の底から求めているもの、願い)を伝えることができるし、相手のニーズを受け取ることもできる。
それに祝福をもって、お互いに第三の選択肢を見つける歩み寄りもできる。
そんな世界があるということを知って。
だからこそ、お坊さんとして何かを話し、何かをしようと思った時に「共創造」の部分を大事にしたいと思いました。お坊さんがやる大事な役割だなと。
仏教や瞑想などの土壌があったことも大きくて、私にはすごく理解を深めやすく、あっていました。
だから、それを見つけることができてからコミュニケーションはガラッと変わりました。
ここへのきっかけをくれた出来事となったことが大変嬉しい反面、見つけるには痛みもあったなと思います。
でも、痛みはあったとしても、この向き合い方をもってすればその痛みは軽減されるのではないか、そう伝えたいと思います。
選択の奥にあった心の痛みの理解と解放
ー痛みがありそうだと分かっていても、“エッジ”に向かうと決めた時の思いを教えていただけますか?
私の性格的なものかもしれません。9年間やっていた野球を3回やめようと思ったことがありました。その時もつらい方、つまり続ける方を選びました。
もちろんパートナーを愛していたというのもありますが、自分の本質的な部分かもしれません。
ひとつは、その選択肢に純粋にひた向きに行きたいんだなということ。
もう一つは、自分の心の痛み・傷に触れたときに「そこに行くことによって、私は許される」とか、そういうものをもっていた自分がいたということです。
だから、以前は「つらい選択肢を取らない人に対して厳しい態度をとってしまう」私の部分がありました。
ですがその痛みの存在を理解した時に、自分とは違う選択をする人に対しても何かを思うことはなくなりました。以前とは考えが変わった部分がありますね。
ー自分の心にあった痛みの存在を理解したことによって、対極の考えをとる人にたいしてもそれでいいと実感できるようになられたのですね。
かっこよく言うとそうかもしれないです。
ただ、後からになりますが、当初、パートナーとのトラブルもすごく多くありました。彼女の方が年上だし、収入や仕事上の立場のこともあって。
ですが、私のニーズを伝えたことによって彼女の振る舞いも変わってきましたし、全然接し方も変わったというのがあるので、言語化ができたのは大きかったです。
そういう経験があるので、他の人も苦しんでいるんだなとわかったときに、対話とか、ファシリテーターになろうとか思えるようになったので、すごく活きてきています。
だから私は、魂的な成長とともにあるパートナーなのだと思いながら、今その彼女といます。
頭と胸とお腹のことば
ー運琇さんは探究心も強いとおっしゃっていて、知識の面でもたくさん学ばれてきていると思います。その上で、実体験から学んでいくことを大事にされているように思いましたが、いかがでしょうか。
私は大学院までずっと経典を読み続けたりして、知識的な部分での探究はしてきました。大学院の論文も書かせていただいて、死生観についてはだいぶ深く勉強させてもらいました。ただ、そこには実感も体感もありません。
もちろん経典を読むのはすごく楽しいのでずっとやっていたかったのですが、本に書かれてることが「本当なのかな」ということを感じていて。
だからその書かれていることが本当かどうかっていうのを確かめたいっていうのもあって、実践の道を生きているというのも大きいんですね。
内観深度とは
そこでいえるのが「内観深度」というもので、頭で考えて出てくる答えと、胸で聞いてて考えて出てくる答えと、さらに深いお腹の部分で考えて出てくる答えは違うということです。それを知って、そうかもしれないなと。
私はずっと「頭」でいたんですが、「胸」の部分も大事だし、「お腹」の部分も大事だと。
たとえば、今日の夜は何を食べようかと考えたときに、頭で考えたら、通勤の帰り道にスーパーで安売りしていた魚を「安売りしてるから買おう」みたいな思考的な自分のチョイスが出てくるかもしれません。
でも胸に「自分が本当に好きなものなんだろうな」と聞いてみたら、「私は今ハンバーグが食べたいな」となって、ハンバーグを食べようという選択になったり。
さらにもっと深いお腹の部分で考えると、食べるときに実際にそんな選択はないかもしれませんが、究極私が一番食べたいものというと「昔食べたあのときのあのご飯が印象的だったな。
だからお母さんところに帰ってご飯食べようかな」みたいな感じになったりするわけですよね。
だから全然出てくる答えが違うんですよ。
その出てくる答えが、違うということは多分、肉体があって、司令塔が頭にしかないように見えて実は、意識をどこかに向けるだけで全然違う答えが返ってくるし、違うメッセージがあることがわかった時に、頭だけ頼るのはやめようと。
頭だけではなくて、心にも聞いてみて、今どんな感じなのかな「なんかつらいんだな」というのを感じられたら、このつらさに寄り添えるのに対話に行こうとか、そういう選択肢も取れます。
私にとっては、心を向けた時に何か頼れる場ができたことも大きかったです。
だから、心を通じて浄化された先のお腹の部分にある、究極の「自分が体現したいもの」を考えたときに「私は今ここだ」という現在地がわかると、うんまた頑張ろうっていう気持ちになれる。
私はそこをすごく大事にしています。
心を寄せると対立は生まれない
ー心とお腹からの言葉を大切にされていることを、お話を伺うことを通して受け取らせてもらっています。
話していると、表情からも感じ取れるんですよね。心で感じ取って聞いていると、相手に何か悲しさを感じるな、とか思うようになったり。
コミュニケーションの幅がもちろん広がりましたし、なによりも「その人が今、どんな状態なのかな」という視点・探究心を持つことによって、少なくとも何か対立するような可能性がだいぶ減りました。
多分、情報のやり取りだけで言ったら、「会議を進めます」となったときに子どもを怒った直後の人は罪悪感にさいなまれていてうまく話せないかもしれません。
その時、頭だけで動いている人だったら「君はぜんぜんダメだね。もっとしっかりしなよ」という感じの言葉も出てきたりしますよね。
でも、「心」で感じられていて「今日、どうかした?」とかそういう言葉が出てくるのだとしたら、少なくとも対立は生まれません。
会議のように何かプロジェクトを進めなければいけないこともあるかもしれないけれど、少しだけ気持ちを寄せることもだってできます。
それに気持ちを寄せる人はきっと、相手が会議中に「実はこういうことがあって」と言ったとしても「今、会議中だから関係ない」なんて言うことはないと思っています。
そういう状態が「場」として生まれていたら、それほど素晴らしいものはないんじゃないかと。
だから、「頭」だけではなく、「胸」も「お腹」の部分も大事にする視点をもちたいと思っています。
ー運琇さんの素敵な在り方とともに、最初の焚き火のお話が思い出されました。運琇さんの想いをみなさんが受け取って「心」を寄せる場になったのだなぁと。
それが焚き火に参加された方の心が満たされたり、たき火のお話を伺っただけで私もあたたかさを感じたことにつながるのではないかな、そんな風に思いました。
運琇さん、ステキなお話をありがとうございました。
ー運琇さんのご活動情報ー
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